「ハワイ音楽と音楽家」ハワイ大学出版局1979年刊、99〜100頁より許可を得て転載
作曲家、スチール・ギター奏者、バンド・リーダー。
1909年4月24日 ホノルル生まれ。
両親:勝五郎、千鶴子。1934年10月26日好江と結婚。1男2女。
1933年慶応大学予科卒業。13歳までホノルルで育ち、日本へ帰国。
もし日本に「ハワイ音楽の父」という尊称があれば、間違いなく灰田有紀彦氏のものであろう。日本のハワイ音楽家や愛好家のほとんどすべてが、灰田氏のハワイ音楽界に於けるスチール・ギター奏者、指導者、バンド・リーダー、作曲家の先駆者として、そしてハワイ音楽の推進者としての功績に影響されていると思われる。
灰田氏はハワイに生まれ育ったが、13歳のとき前年の父親の死去により家族とともに日本へ帰国した。この事が同年代の日本人(バッキー白片氏は例外として)の中で彼をハワイ音楽の知識を持つ貴重な人物にさせた。そしてこのことは間違いなく彼の音楽家としての経歴の中で他者より有利なポイントであった。彼は正真正銘日本初のスチール・ギター奏者として音楽家生活を始めた。更に彼は1931年のモアナ・グリー・クラブの演奏会に於いて、ナショナルのアコースティック・メタリック・スチール・ギターを日本で最初に演奏した人物でもある。彼のスチール・ギターは独学であったが、さらに勉強する為に1933年にハワイへ戻り、スチール奏者のM.K.モケ氏に師事した。
ハワイ滞在中に、灰田氏はバッキー白片氏に会い、この若い二世のスチール・ギター奏者に対して、日本でその腕を試してみてはどうかと助言した。ハワイ大学で1年学んだのち、モアナ・グリー・ク
ラブの追加のギター奏者として、そして若い日本のギター奏者達を指導して貰う目的で、ギター奏者のジェリー・栗栖氏を伴って東京に戻った。
彼は1935年に日本ビクターと専属契約を交わし、レコード吹き込みを開始した。間もなく彼は日本で最も有名なスチール・ギターのレコーディング・アーティストとなり、彼の名声は現代の日本のスチール・ギター・ファンの間でいまだに語り継がれている。彼が1929年に創設したモアナ・グリー・クラブは長いあいだハワイ音楽の貴重な原点として活躍してきた。モアナの解散後、1945年に結成したニュー・モアナは日本におけるトップ・グループのひとつとなった。弟の勝彦氏と組んで作ったこのグループで、彼は日本ではそれまで起こったことのない大喝采を博した実演とレコードのいくつかを実現させた。
灰田氏は楽器奏者やバンド・リーダーとして卓越した技量をもっていただけでなく、作曲の分野に於いても恐らく彼としての最高の成果
をあげた。彼はハワイアンと非ハワイアン音楽をあわせて600曲も作曲した。ハワイアン音楽としてはビクターSTX−10162に収録された「ロゼラニ」、「アロハ・ホノルル」そして「フラの天国の小星」、ビクターSJX−8515収録の「マイ・ハワイアン・セレナーデ」そしてビクターLV−77に収録された「アロハ東京」などが含まれる。67歳の今日でも彼は作曲家として活躍中である。
彼は現在の肩書きのひとつとして日本ウクレレ協会の会長も務めている。